なぜ今、学習塾に「徳育」が必要なのか

教育の基本理念として、日本では「知育(知の教育)」「徳育(心の教育)」「体育(体の教育)」のバランスを重視し、調和のとれた人格の完成を目指しています。学習塾では知育が重要視されていますが、当塾では徳育にとても力を入れています。なぜなら、現在の子どもへの教育でこの部分が最も衰退してきていると考えているからです。では、徳育の目的とは何かを以下で簡単に説明します。

・ 道徳心と規範意識: 善悪の判断基準や、社会のルール・マナーを守る意識。
・ 情操: 美しいものや崇高なものに感動する心、他者の痛みに共感する豊かな感情。
・ 自律と責任: 自分自身を律し、自分の行動に責任を持つ。

このように、人間力を育成していくために徳育は欠かせません。しかし、冒頭でも述べた通り、現在の日本の社会ではこの部分が最も衰退している部分だと考えています。「脱ゆとり教育」がスタートして15年ほど経ちますが、その後も、学習指導要領が変更されるたびに学校での学習量が増加しています。小学校での英語学習の教科化、大学入試では新たに情報という科目まで追加されています。その結果、授業負担が増加し、生徒一人ひとりに向き合う時間を取れないジレンマを現場の先生方は抱えているというお話を良く耳にします。とりわけ、最も子どもの人格形成にとって重要である小学校での先生方の苦労は、我々塾業界で働いている人間にとっても同情してしまうほど過酷な労働環境になっているようです。ここでは決して「ゆとり教育」を肯定しているわけではありません。むしろ、近代日本教育の最大の黒歴史だと考えています。その理由については、機会があればまた別のコラムで触れていきたいと考えています。

このような詰込型の学校教育は、実際子どもの人格形成に大きく影響を与えていると感じています。特に、子どもに対する「しつけ」や子どもの「やる気」の部分で悪影響が出てきていると考えています。今の日本の教育では、「しかるよりもほめて伸ばす」ことが重要視されています。これは子どもへの教育だけではなく、我々大人社会でも同じような風潮になってきています。人間が努力し成果を出し、それをしっかり評価してあげることに対して私は一切否定するつもりはありません。しかし、どんなに時代が変わっても変えていけないものがあります。それは「良いことは良い、ダメなことはダメ」ということです。これは人類が誕生した数百万年前から不変の真実であると思います。

人間の本性を語る上で、古代中国の儒教の教えで「性善説」と「性悪説」という2つの対立する思想があります。前者は、人間の本性は「善」であり、その善い芽を教育や環境によって育て伸ばすことが大切だとする考え方です。後者は、人間の本性は「悪(利己的・怠惰など)」であり、そのままでは争いが起きるため、礼儀や法、社会規範によって強制的に矯正するという考え方です。主に、日本では昔から「性善説」の立場で教育してきたのに対して、欧米では「性悪説」の立場から教育が行われてきました。今回は、どちらが正しいという議論をするつもりはありません。ここでは、長らく日本の教育で採用されてきた性善説と徳育との結びつきについて考えていきたいと思います。

性善説の「性」とは人間の「本能」のことです。先ほど話してように人類が誕生してから数百万年前から現在まで、我々人類は子孫を残し続けてきました。それは今のように学校教育が始まるずっと前から、人類が正しい選択や行動をしてきた結果です。もし、それが間違っていたのであれば、そもそも我々人類という種自体、現在この世には存在していないはずです。そして、徳育の一番の目的は、我々人間が長い年月本能として持っているものを強くし「人間力」を養成することだと考えています。つまり、それを強くすることで人間が本能として持つ「幸せになりたい」という願望を叶えて行くのです。しかし、人間は時には間違った行動をすることで、「幸せ」と正反対に向かってしまうことがあります。それでは、なぜ人は間違った行動を起こしてしまうのか。それは人には「理性」があるからだと考えます。これは車を例に考えると分かりやすいと思います。車を「本能」、運転技術を「理性」と考えると、交通事故のほとんどは車自体が問題ではなく運転技術が原因で引き起こされます。よって、最近の若者による殺人や強盗などの重大犯罪の多くは、この理性の不具合が表面化している現れであると私は考えています。なぜなら人は本来、本能部分ではそのような行為はできないと考えるからです。

それでは、どうすれば理性を正しく導くことができるのか。それは、「ほめる」だけの教育から脱却し、しっかり「しかる」ことも恐れないことだと思います。様々な要因はありますが、現在は親に溺愛されてきている子が多いです。子どもの愛着を育む上で、子どもをしっかり愛すことの重要性は様々な研究で証明されています。しかし、それは6歳までの未就学児に限った話であり、一般的に小学校に入学後は集団生活を通して社会のルールやマナーを学んでいきます。そして、溺愛するだけでは道徳心は育ちません。小学生からは、「愛すること」と「甘やかすこと」との境界線をしっかり持つことが必要になります。善いことだけではなく、悪を知ることにより人間はそれをしないように学んでいきます。子どもは本来、本能部分で自分の好きなことしかしたがりません。しかし、人はいつかは社会の中で生きていく術を身につけていかなければなりません。なぜなら、「幸せ」は自分一人だけでは達成できないことだからです。

心理学の観点から見ると、子どもは本来、「言われたこと」よりも「自分の身に起こったこと」で物事の善し悪しを学んでいきます。そして、人間としての本能部分では、子どもは本来やらなければならないことでも、嫌なことは自分自身からやりたがりません。しかし先ほども述べた通り、人間は本来「幸せになりたい」という本能も同時に持っています。その証拠に、状況ごとに幸せを生み出すホルモンを人間の体の一部である脳で分泌することができます。セロトニン(心身の安定)、オキシトシン(人や動物とのつながり)、ドーパミン(達成感)の3つのホルモンが代表的です。そして、これも先ほど述べたことですが、幸せになるためには自分のやりたいことだけを優先して叶うものではないのです。ここで、「幸せ」について面白い研究結果がありますのでご紹介させていただきます。慶應義塾大学の前野隆司教授らの研究では、幸せを感じている人、いわゆる「幸福度」が高い人に共通する4つの心の因子が提唱されています。

1,やってみよう因子(自己実現と成長): 自分の強みを活かし、夢や目標に向かって努力している状態。
2,ありがとう因子(つながりと感謝): 周囲の人への感謝を忘れず、良好な人間関係を築けている状態。
3,なんとかなる!因子(前向きと楽観): 失敗を引きずらず、困難な状況でもポジティブに捉えられる力。
4,あなたらしく!因子(独立とマイペース): 他人と比較せず、自分らしい軸を持って生きている状態。

上記の内容を見ると、自分自身についての事柄の他に、他者との関わりについても触れられていることが分かります。前野教授たちの研究では、「幸福度」が高い人たちは上記4つの因子を持っていることが分かりました。そして、私が気付いて驚いたことは、冒頭で述べた徳育の目的との共通点が非常に多いということです。言葉としての徳育は、明治時代にイギリスの学者ハーバート・スペンサーの思想が日本に導入されたことで広まりました。福沢諭吉らが、教育には「知育・体育・徳育」の3つ(三育)のバランスが重要であると提唱したのが始まりです。つまり昔の偉人たちも、人が幸せになるために徳育が必要であることが分かっていたわけです。そして、私は徳育にもっとも重要な考え方は「自制」であり、小中学生時代にもっとも身につけなければならない能力だと考えています。

自制とは一時的な欲望や感情に流されず、自身の行動をコントロールする力です。そもそも人間はとても尊い存在です。生まれながら幸せになりたい本能を持ち、そのためには自分自身を高めることはもちろん、他者との関わりで自分の幸せを感じる能力をもっています。そして、幸せを感じるために他者と関わりが必要である以上、自制することは必要不可欠だと考えています。だからこそ、自制を学ばせる上で「しかる」という行為は善であり、心理学から見ても、子どもに「自分の身に起こったこと」で学ばせるという観点からも重要であると考えるのです。

私は「ほめる」という行為を完全に否定するつもりはありません。ほめるという行為自体は他のコラムでも述べた通り、子どもの自己肯定感を育てる上でとても重要なことです。また、我々大人社会でもほめられることはあらゆる事象のモチベーションにつながります。しかし、人が「幸せ」を追求する上で他者との関わりが必要である以上、ほめると同時にしかる行為は必要です。そして、それは子どもに愛情を伝える方法にもなると考えているのです。なぜなら、愛情を示すためにはしっかり子どもと「向き合う」ということが必要だと考えるからです。そして、人は大人になる上で必ず間違いを犯し、我々大人にはしっかり子どもに向き合わなければならない時期が必ず訪れるからです。具体的には、人は大人になる過程で「本能」が間違いを犯す時期、つまり「反抗期」が三度あります。以下にその具体例を紹介します。

1,第一次反抗期(1歳半〜3歳頃)いわゆる「イヤイヤ期」です。自分の思い通りにならないと癇癪(かんしゃく)を起こしたり、「イヤ!」と自己主張したりするようになります。
2,中間反抗期(6歳〜10歳頃)小学校低学年から中学年にかけて見られます。親の干渉を嫌い、口答えや屁理屈が増えるのが特徴です。外で溜めたストレスを家庭で発散しているケースも少なくありません。
3,第二次反抗期(12歳〜17歳頃)中学生から高校生にかけての思春期に本格化します。親への反発や無視、自室への引きこもりなど、親からの精神的自立を求めて複雑な形で表れます。

上記は、我々大人であれば大なり小なり全員が経験したことがあるはずです。つまり、人間が本能として持つ特性でもあります。したがって、人間の本能は大人になる過程では間違いを犯すことがある証明になるはずです。私はこの時期を「心と体が一致しない時期」と言っています。最も大変なことは、この時期は本人自身もなぜそのような行為や発言をしてしまうのか分かっていないということです。実際、この時期に問題行動をしてしまう生徒にそれが落ち着いた時期に、なぜそうしたのか聞いても「自分でもよくわかりません」や「黒歴史なので聞かないでください」という返答が返ってきます。私は、この時期の保護者には「おめでとうございます」と伝えると同時に「しっかり向き合って絶対に理不尽に負けないでくださいね!」とアドバイスをします。なぜなら、子どもが成長している証であると同時に、人間としての「本能」を強く育てる大切な時期だと考えているからです。

実際自分のお子さんで経験された保護者の方や、現在進行形で経験されている保護者であれば、この時期の子どもにほめるという行為でどうにか対処できる問題ではないということは分かっていただけると思います。ここで最も必要なことは「ほめる」よりも「しかる」であり、それは子どもを愛しているからこそできる行為であるはずです。逆にこの時期に親が「無関心」で対応すると、理由のないマイナスな感情は行き場を失ってしまいます。これは、家庭内だけではなく子どもによっては外部でそのイライラを発散する生徒もいます。それは、決して荒々しい態度や発言だけではなく、静かな葛藤として現れる場合もあります。そういった時我々は、「しかる」という行為を恐れません。なぜなら、例え自分たちの子どもではなくても、自分の子どものように愛していますし、親と同じように子どもが幸せになってほしいと考えているからです。そこに、血のつながりは関係ありません。将来国を支えていく同志として、我々は子どもと真剣に向き合っています。

ここで「しかる」という言葉を別の言葉に置き換えてみましょう。皆さんはどのような言葉を思い浮かべますか。私は「勇気づけ」という言葉が最も合致すると考えます。似たような言葉で「励ます」がありますが、ここでの意味合いは少し異なります。なぜなら、励ますは子どもとの距離感や上下関係を感じるのに対して、勇気づけはすぐ横で伴走すること、つまり、同じ目線でいるイメージがあるからです。私にとっての「しかる」は「勇気づけ」であり、これは「心と体が一致しない時期」に最も有効な手段です。そして、最も教育者としてのスキルの差が現れる部分だと考えています。子どもの心が不安定な時期にそれを行うことで本能の不具合を修正し理性が整っていきます。本能と理性が整うことで、「自制」という能力が育っていくのです。それでは最後に、具体的にどのように子どもをしかればいいのか、実際の生徒と私の会話や全体への言葉がけをいくつか紹介させていただきます。

パターン①・・・難しい問題を解きたがらない生徒
生徒:こんなに難しい問題解けるわけないし・・・
橋本:出来ないって誰が決めたの?先生は〇〇ができないって思ったことは一度も思ったことはないけどな。仮に先生がそう思っているなら、こんなに難しい問題をやってみなさいって言わなくない?指導するプロとしてあなたならきっとできると思ってやらせてるけどね?

パターン②・・・成績が伸び悩んでいる生徒
生徒:勉強してもどうせ成績上がらないし・・・
橋本:〇〇には既に成績が伸び悩むぐらい勉強を続けられる才能があるじゃない?物事には時間しか解決できないことがあるし、それを方法論で解決しようとしても難しいでしょ?先生は〇〇が正しい方向に進んでるって確信しているよ。

パターン③・・・騒がしいクラス
橋本:先生はねあなたたちの未来は明るいって思ってるよ。だって、こんなに疲れて忙しい中でも塾に来て勉強しているでしょ。だから集中力が切れるのも分かる。だからこそ、疲れた時やモチベーションが上がらない時にどうやって自分を立て直していくかの練習をしていこうぜ!

パターン④・・・嘘をついた生徒
橋本:なんで叱られてるかわかるか?嘘は人としての○○の価値を下げるからだよ。俺は一人の人間として〇〇のことを尊敬していきたいと思っているし、そうなれると思ってるから叱るよ。

上記以外にも様々な場面がありますが、パターン①とパターン②の状況は主に、心と体が一致しない葛藤が内側に向かっている時によく表れます。また、残りの2つはそれが外側に向かっている時のものです。どちらのパターンも大切なことは「余白と余韻」を残すということです。先ほど述べたように、私の中ではしかるは勇気づけと同義語と考えています。よって、現在にフォーカスするのではなく未来に着目することが大切です。そのためには、子どもの未来に変化が表れるように、子ども自身が考え、修正、実行できるようにしてあげる言葉がけが必要になります。そこにはたくさんの言葉や生徒に対する圧はあまり必要ではありません。そして、そこに我々大人が子どもをコントロールする意図があってはいけません。あくまでも、同じ目線で共通の目標を達成するために協力していこうという意識が重要です。

以上、人間が生まれながらに持っている「幸せになりたい」という本能をとても素晴らしいことです。しかし、間違った理性がつくことで可能性を自ら壊してしまう子どもが増えてきています。だからこそ、それを修正するために徳育は必要不可欠です。そして、徳育の目的を達成するためには「しかる」という行為を我々大人は恐れてはいけません。しかるという行為を通して「自制」が身についてはじめて他者への視点がもてるようになります。勉強を教えるだけでは生徒の人間性は向上しません。当塾では勉強という手段を通して、子どもをしかり、向き合い、勇気づけることで本能に従った行動をできるように指導しています。ぜひ、ご興味のある方はお気軽にお問い合わせください!